2019年11月10日日曜日

違う場所に行く

腰が痛くて曲がらない。
土曜日は千林の着物イベントに行こうと誘われていたのだけど断念、
腰痛コルセットして着物きて帯締めて、家でちーんと座ったまますごしましたとさ。

おとなしくしていたせいか、腰の具合がだいぶ良くなってきた。
日曜日は京都で山中先生のワークショップに参加。

自分の先生から、大声で歌わなくてもいいと注意されているのだけど
ワークショップは合唱をやっていらっしゃる方が多くて
わりと大き目の声ではっきり歌われるので、つい自分も声を張り上げてしまう。
その結果、バリバリかすれた声になるのよね。
注意されたことをすぐ忘れるわー。

今日のワークショップでも興味深いお話が聞けた。

歌うと言うことは相手に向かって呼びかけることだから
30メートル先の相手に届くように声をだすこと。
お腹を膨らましたままで歌うこと。つまり支え。

歌もスポーツと同じ、心、技、体が揃っていなくてはいけないので
まずは歌える身体を作ること。丹田を意識した生活をすること。
歌うとき、どうしても技術のことばかり考えてしまうが、
心がないと伝わらない。
歌には必ず訴えたいことと、訴えたい相手がいる。
何をどうやって相手に伝えたいのか考える。
音色(ねいろ)で表現すること。

ふむふむ、どうしても、どうやって声をだすか
ばかりに気を取られて、何をどう伝えるかはお留守になるのよね。

今日一番ささった言葉。
上手くなりたい、というのはどういうことなのか。
人によっていろいろとレベルは違うだろうが
上手くなりたいと思って練習をし、出来るようになると
今いる場所とは違う場所に行ったことになる。
今の自分とは違う自分になったことになる。
上手くなるとは、今と違う場所に移動していくということ。

確かに、「初恋」の低音に四苦八苦していた自分と
普通に歌えるようになった自分は、別の自分だ。
歌えるまで、毎日毎日練習して、身体に覚えさせた。
そこで止まってしまうのが私の情けないところだけど
出るようになったら、今度はどんな風に歌うか、
どうやって歌詞の世界を表現するかを考えないといけないんだよね。
そしてそのとき見る風景は、出来なかった時とはまた別のはずだ。

山中先生は面白おかしく笑いを取りながらお話されるのだけど
その話についうるっとなってしまうことが多い。
前回の「里の秋」の解説でも、南方に出征した父親の帰りを待つ
母と子の心情を歌で描き出さなければいけないと説明されて
ええっ、「里の秋」ってこんなに深い内容だったのか、と驚いた。
この歌の「父さん」は徴兵されて戦地に行っているとは習ったけど
待っている母と子がどんな思いで栗の実を煮ているのかなんて
ぜんぜん考えたことがなかったわ。
この曲は確か、小学校5年生の時に合唱をやって
私はピアノ伴奏したので、ピアノの練習ばっかりやってた記憶がある。

不安で不安でたまらないのに、それを隠してけなげに生活する母子。
幼い子はお父さんがいなくてさびしくてたまらないのに
さびしいと言うと、ぎりぎりで我慢して耐えているお母さんが
泣きだしてしまうかもしれない、それを分かっているので口にしない。
そうやって、お互いを思いやって暮らす母子の姿が思い浮かんで思わず涙が出た。
これを歌で表現しないといけないのか、あー、絶対無理です。

先生のお話を聞きながら、なぜ自分は上手くなりたいと思うのかと考えた。
別に人に聴かせるつもりもないし、プロを目指しているわけでもない。
でも、上手くなりたいのは、なぜか。
それは、自由になりたいから。
自分の声を自在に操って世界を表現できるということは、
自由を獲得することだと思うから。
自由に、どこか違う場所に行って、違う風景を見ることができる、と思うから。

そうだ、どこか違う場所に行きたいから。
いまここでずっと留まっていたくないからだ。
思えばずっと、子供の頃からずっと、ここではないどこかに行きたいと思っていた。
それがどこか分からないけど、どこかにきっとその場所がある。
なんだか、歌を習おうと決めたときのことを思い出して
またうるっとなってしまった。

***

おばちゃんの物思いは、短い。
帰りにいい呑み屋見つけて、入っちゃいましたー。

 天然ぶりのお刺身、美味しゅうございました。

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