2019年1月6日日曜日

りんごの木の下で

実のなる木が好き、姿が良いと思うから
と、昨日書いたけど、実を利用することにはあまり関心がない。
実家では毎年ジャムやらカートやら甘露煮やら梅干しやら作るし
妹は果実を使ったケーキを焼いてくれたりするけど
料理が全般的に苦手な私は食べる方専門。

姉が作ったフェイジョアのジャム。お土産に持たせてくれた。
実を潰さないように煮るのが難しいそうで
実の形を残すためには、フェイジョアの熟れるタイミングが大事なんだとか。
そのまま食べるとマスカットとりんごを足して二で割ったような味だけど
ジャムにするとアプリコットっぽい味になる。
実家では毎日ヨーグルトに入れて食べている。

このフェイジョアが好きな人がご近所には結構いて
実がなったら分けて欲しいと頼まれている。
父が好きなだけ持って行ってと言ったので、木を仕切っていた姉、激怒。
植えたのは父だけど、草引きやら剪定やらは姉がやっていて
実も姉の許可なく勝手に取ったら怒られる。フェイジョアの木は姉の木。

私はフェイジョアがそれほど好きではないのだけど、
実をつけている姿はやっぱり美しいと思って、もっぱら眺めるだけ。

高校二年の時、長野にスキー合宿に行った。
うちの高校は修学旅行として志賀高原でスキーをするのが恒例で
当時、近隣の高校はみんなそうだったと思う。
中には、スキーと善光寺参拝をセットにしている学校もあった。

その長野で生まれて初めて、りんごがなっているのを見た。
真っ赤な実をつけたりんごの木がずらっと並んでいる様は
本当に美しくて感動したわ。

 まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり

これは、島崎藤村の「初恋」という詩の一節。
小学生の頃、なぜか詩を暗唱するのがクラスで流行って
この「初恋」やら、北原白秋の「曼珠沙華」やら
カール・ブッセの「山のあなた」やら、覚えて友達と一緒に暗唱したわ。

なんで昭和のド田舎の小学生の間で詩の暗唱が流行ったのかはよく分からない。
多分、小難しい言葉を覚えたいお年頃だったのと
七五調のリズムが心地よかったからだと思うけど
「初恋」を暗唱するときに自分がまずイメージしたりんごの木というのは
梨狩り農園の梨の木だったのね。
なにせ、りんごの木なんて一度も見たことがないから
りんごっぽい木として思い浮かべたのが、大きく横に広がった枝に
実が袋を掛けられてぶら下がっている、梨の木。
実の形が似ているからこんなもんなんだろう、と適当に間に合わせておいた。

 やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは
 薄紅の秋の実に 人こひ初めしはじめなり

この一節では初恋相手の女の人が手を伸ばしてりんご、
というか袋が掛けられた20世紀梨をぶちっと引きちぎる姿を想像して
梨狩りでは鋏を使って母が取ってくれていたので
鋏なしでもげるなんて、力の強い女の人なんだなあと思っていた。

 林檎畑の樹の下に おのづからなる細道は
 誰が踏みそめしかたみぞと 問ひたまふこそこひしけれ

「おのずからなる細道」は田舎の子供には簡単にイメージできた。
果樹の足元は草がぼうぼうで、そこを何度も通っていると草を踏みしめた道が出来る。
その木の間を歩いている二人の姿が浮かぶ。
なんとなく、学生服の男性とかすりの着物を来た女性みたいな感じ。
ところが、ここで肝心の果樹がどうしても思い浮かばない。
梨狩り農園の梨の木の下には草なんて生えてないし
どんな木の間を歩いていたのかイメージできなかったので
とりあえず、ユスラウメとか桃とかの木が狭い間隔で植えられていて
その間をぬって人が歩いているところを想像したけど
そのユスラウメの木にりんごがなっているところは思い描けないので
脳内に浮かぶ絵では、この部分の果樹に実はついていなかった。

長野で初めてりんご畑を見た時は、なんて綺麗な木なんだろうと思った。
りんごの木は梨農園の梨の木よりもずっと背が低くて
りんごの実は、手を伸ばせばすぐに取れるくらいの高さについている。

この美しい木の下を歩く若い男女。
辺りにはきっと、ほのかな甘酸っぱい香りが漂っているのだろうな。
立ち止まって、真っ赤な実に手を伸ばす、白く細い手。

これは、詩だわ。

この詩の主人公は、大人になっても歳をとっても
いつまでもその白い手を覚えていたと思う。

去年5月の野崎詣りでの東京大衆歌謡楽団の演奏会、
一日目の演奏の終わったあと、孝太郎さんはいつものようにお客さんと話したり
写真撮影に応じたりする代わりに、アカペラで「りんごの木の下で」を歌ってくれた。

 リンゴの木の下で
 明日また会いましょう
 黄昏れ赤い夕日
 西に沈む頃に
 楽しくほほ寄せて
 恋をささやきましょう
 真っ赤に燃ゆる想い
 リンゴの実のように
 (作詞:Harry H. Williams, 作曲:Ebgert van Alstyne
      日本語歌詞:柏木みのる, 唄:ディック・ミネ)

まるで残っていたお客さんに語りかけるような歌。
陽は西に傾いて、あたりは黄色く染まっていた。
みんなの拍手に送られてステージから降り、
ひとり控え用の建物に向かう孝太郎さんの白いうなじを見た時、
この藤村の「初恋」が思い浮かんだ。

 やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは
 薄紅の秋の実に 人こひ初めしはじめなり

りんごを手渡した女性の手も、あんなに白かったんだろうか。

りんごの木で梨の木を思い浮かべていた子供の頃は、梨狩りと言えば鳥取。
連れていってもらったことがあるし、鳥取に行ったご近所さんからも
お土産に梨をよくもらっていた。
梨はひとつひとつ「二十世紀」と印刷された薄紙に包まれて
買い物籠みたいな形のプラスチックの籠に入れられていた。
あの薄緑色の籠は、モロゾフのプリンのガラス容器とともに
当時関西の家庭には必ずあるものだった、と、思う。

実家の納屋にツバメが巣を作っていた頃、巣から落ちた雛鳥が
その籠の目にはまり込んでぴーぴー鳴いていた。
ふわふわの小さい雛鳥。父がそっと拾い上げて巣に戻していたなあ。
記憶の中の納屋は、どこに何があったかなんて全然思い出せないくらい
ぼんやりとしたグレーなのに、棚の上に置かれていたあの梨の籠の緑だけは、
なぜかくっきりと浮かんでくる。

巣立って行ったあのヒナは、無事にシベリヤまで辿りつけたのだろうか。
あれはちょうど今頃だったかなあ、と思い出した夕暮れの野崎観音。

りんごと全然関係ないやん。
自分でもなんでツバメにたどり着いたか分からないけど
おばはんの回想とは大体において脈略がないものよ。

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